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大分地方裁判所 昭和33年(わ)391号 判決

被告人 松井胸蔵

明三九・二・一生 農業

主文

被告人は無罪。

理由

第一、本件公訴事実

一、本件公訴事実

本件公訴事実は被告人は昭和三三年九月二七日午後四時三〇分頃、大分県北海部郡坂ノ市町大字丹川一、二四二番地指原修一方において、指原照市(当時五六年)より素手で顔面を数回殴打されたことに憤激し同人の顔面等を手拳で殴打し同家上り框に同人の頭部を打ちつける等の暴行を加え因つてその頃同所において同人を蜘蛛膜下出血により死に至らしめたものである、というのである。

二、認定事実

(中略)

被告人は平素より飲酒闘争を好まず温厚な人柄で部落で中位の自作農として近隣の信望厚く、肩書地上久所部落会委員、同納税組合長、上久所公民館運営委員等を勤めているものであり、指原照市は被告人と同様上久所部落会委員を勤め平素はまじめな部落で中位の自作農であるが、一旦飲酒の上は、いわゆる酒癖が悪く、平素の酒量五合位で人にからみいんねんをつける性向があり、予て被告人に対し些細なことでからみ殴打に及んだことがあつた。昭和三三年九月二七日午後一時頃、坂ノ市町大字丹川一、二四二番地丹川区上久所部落会長指原修一方玄関に接した板張八畳間に、指原修一をはじめ部落会委員である被告人、指原照市他四名の者が参集して、右部落共同精米所に備えつける精麦機等を購入のため、大分市和田盛商会セールスマン大塚清一との間に商談を終え、同日午後四時頃から午後四時三〇分頃まで、その場で右大塚の贈つた合成酒一升を飲みながら被告人他六名の者が雑談中、指原照市は約六、七合を、被告人等はそれぞれ約五勺をのんでいたが、その頃たまたま話題が稲作のことに及び被告人が自分の田は旱害だといつたところ、これを耳にはさんだ指原照市は、「お前のところには水をやらんでよいことになつている。おれのところに書付がある」と被告人にからんだので、被告人は「そんなばかな話はない」と否定しながらも照市の酒癖の悪いことを慮つて、指原修一に散会を促し自分は席を立つて、履物をはき、玄関外に立つて、誰にいうとなく「帰ろうや」といつたところ、照市はやにわに席を立ち素足のまま玄関外へ走り出して被告人に向い合うや片方の手で被告人の胸部のシヤツをつかみ、「書付をみせるから来い」と口調激しく被告人にからみ、被告人が見に行く必要がないと答えるやなおも来い来いとせまるので、それなら行こうと答えたところ、いきなり他方の平手をもつて被告人の顔面頬部を強く二回殴打するの暴行を加えた。被告人は、「殴るとは何事か」と口走りながら直ぐ照市の両上膊部附近のシヤツを両手で掴み、暴行をおさえようとしたが、照市はますます執拗に暴行の態度を捨てず、そのため両者は揉み合うままに、照市が被告人を引きずり込むようにして前記玄関の敷居を越え、玄関内の上り縁に照市が腰をかける恰好で下になり、その上に被告人が向き合つたまま折り重つて倒れたところ、照市はやにわに被告人の着けている作業ズボンの赤皮バンドを引き切り、両手をズボンの中へ差し込んで、褌の上から被告人の睾丸を掴むの暴行を加えたため、被告人は照市の体から自己の身体を引き離すこともできずやむなく両手をもつて照市の耳を掴み、はたまた額や顎をおさえかきむしつて、無理に自己の身体を離そうとしたが汗のため手がすべつて果さず、その間照市は被告人の睾丸を強く掴んだので、被告人は激痛に堪えかね、突嗟の間に手拳をもつて照市の顔面を数回殴打し、かたがた居合せた者に「早よう来てとめんか」と切に助けを求めつゝ、ますます加わる睾丸の激痛を免れるため、右側頭部を上り框(松材、幅一〇センチ、厚さ二〇センチ、長さ三、八七メートル)につけている姿勢の照市に対し、その左こめかめ部を手拳をもつて数回強打し、右側頭部を上り框に数回激突させたため、急拠指原修一が照市を、指原寛が被告人をいずれも背後よりその身体を取り押えて引き離したときすでに、照市は意識を失つており、その後まもなく同所において、蜘蛛膜下出血のため死亡するに至つたものである。

三、争点

被告人並びに弁護人は、指原照市の死因が被告人の行為に基因するものとしても、当時被告人は照市の攻撃を避けて立ち去ろうとしていたものであり、照市が被告人を玄関内に引きずり込み、自己の身体を前折りにかゞめて、被告人の睾丸を掴んで来たために、照市が玄関内上り縁に腰をかける恰好となり、その上に被告人が向き合つたまま折り重つて倒れる両者の体勢になつたものであつて、被告人の所為には攻撃性は存しない。被告人が、照市から睾丸を強く掴まれる急迫不正の暴行を受け、その耐え難い苦痛を免れるため、前記の体勢のもとにあつて反射的に照市の耳を掴みはたまた額や顎をおさえ、無理に自己の身体を離そうとし、手拳をもつて左こめかみ部を殴打するに及んだのであり、これは被告人の身体を防衛するため、まことに已むことを得ざるに出でた行為であるから、正当防衛行為であり、仮りに然らずとするも防衛の程度を超えた行為である旨主張し、検察官は被告人は照市から素手をもつて殴打されたのに激昂し、照市に対し殴打暴行の意思をもつて攻撃を加えたため、照市はその防禦並びに攻撃手段として、睾丸を掴むの挙に出たものであるから、被告人が照市を手拳をもつて殴打し、右側頭部を上り框に打ちつけるの暴行を加え、よつて照市を死に至らしめた行為はいわゆる喧嘩闘争の渦中における相互的攻撃防禦としての暴行と見られるので被告人の所為について正当防衛ないしは過剰防衛を論ずる余地はなく、傷害致死罪の罪責を免れることはできない旨主張する。

第二、当裁判所の判断

前示のような当裁判所が認定した事実に基き被告人の一連の所為を統一した全体として全般的に観察すると、被告人の所為は、指原照市の一方的な攻撃行為換言すると、急迫不正の侵害に対し自己の身体を防衛するため已むことを得ざるに出でた行為であると認めるのが相当であり、まさしく法にいわゆる正当防衛行為に該当するものと言わねばならない。

すなわち、被告人の照市に対してなした本件所為は前示認定のとおりであつて、被告人が「殴るとは何事か」と口走りいく分昂奮しながら直ぐ両手をもつて照市の両上膊部附近のシヤツを掴んだのは、照市の暴行を取り抑えようとしたものと認められ、両者が揉み合いになつたのは、酒癖の悪い照市が、ますます執拗に攻撃の態度をとつたものと対応するのであつて、その事が直ちに照市の挑戦に応じたものとの結論に結び付くものではなく、前掲各証拠に徴しても、被告人は照市から睾丸を掴まれるまで、照市を殴打したことはないとみるべきであつて、いわゆる殴り合い或は取つ組合いの喧嘩闘争とみることは相当でない(この点に関する指原寛の検察官に対する供述調書第二項の記載は爾余の証拠と対比して信用がおけない)。また、玄関上り縁での両者の体勢が、照市は下に腰をかけたようなかつこうとなり、被告人がそれと向き合つたまま折り重つて倒れたのは、被告人が照市を押し倒したものとするには証明が十分であるとはいいがたい(この点に関する指原修一の検察官に対する昭和三三年一〇月一〇日付供述調書、指原次己の検察官に対する昭和三三年一〇月一日付供述調書第二項後段、松井直の検察官に対する供述調書第二項中段以降及び被告人の司法警察員に対する昭和三三年九月二九日付(検第二七号)供述調書の各記載は爾余の証拠と対比するときにわかに信用しがたい)ので、前判示のとおり照市が被告人を引きずり込むようにしたものと認めるの外はない。したがつて、照市が被告人の睾丸を掴んだのは、殴打に始まる一連の継続した暴行行為であつて、被告人の身体に対する急迫違法な侵害というべく、その侵害性は、前判示の両者の体勢の下においては、まことに強度のものであつたことは明らかであり、これに対し、被告人が、その苦痛から免れるため、殆ど反射的に照市の耳を掴み、額や顎をおさえ、かきむしり、また睾丸を握つている照市の両手を振り払うことが不可能な状況にあつたため手拳をもつて照市の顔面、頭部を殴打したことは自衛本能の然らしむるところで、まことに己むことを得ざるに出でた行為というべく、被告人の採つた行動は法律秩序に反するものではない。蓋し、かような場合被告人は手を拱いて照市の危害に任せなければならない道理はないからである。しかも、被告人の右行為により照市が玄関上り框に右側頭部を激突させ、そのために蜘蛛膜下出血のため死亡するに至つたとしても、被告人の右所為は正当防衛の成立要件である必要性又は相当性の限度を超えたものと見ることはできない。それ故検察官の前述の所論には同調することができないものといわざるをえない。

これを要するに被告人の指原照市に対する所為は刑法第三六条第一項所定の要件を充足したものであり、正当防衛行為として罪とならないものであるから、刑事訴訟法第三三六条に則つて被告人に対し無罪を言渡すこととし、主文のとおり判決する次第である。

(裁判官 岡林次郎 島信行 早瀬正剛)

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